|
|
平和記念公園
原爆被爆から4年たった昭和24年(1949年)、広島平和記念都市建設法が制定され、被爆地の中心部が平和記念公園として整備されることになりました。公園面積は約12万2100平方メートル(約3万7000坪)、 設計は丹下健三東大教授(当時)ほか3名の共同作品です。
写真は広島平和記念資料館(重要文化財)から撮影した平和記念公園の様子、中央部に原爆死没者慰霊碑がありその後方に原爆ドームがあります。広島平和記念資料館と原爆死没者慰霊碑と原爆ドームは一直線上に配置されています。 |
原爆死没者慰霊碑
原爆死没者慰霊碑、中央の石室には亡くなった被爆者の名前を記帳した原爆死没者名簿が納められています。原爆犠牲者を雨露から守りたいという気持から屋根の部分が埴輪(はにわ)の家型になっています。
世界遺産として登録されているのは原爆ドームが保存されている敷地の部分だけですが原爆ドーム周辺の平和記念公園にある原爆死没者慰霊碑、広島平和記念資料館などと一体になって原爆の悲惨さを世界に訴えています。 |
|
|
原爆ドーム(西側)
原爆ドームは、原爆によって破壊された広島県産業奨励館の残骸で、その形から「原爆ドーム」と呼ばれるようになりました。広島県産業奨励館は、一部鉄骨を用いたレンガ造りの3階建て(楕円形の屋根の部分だけは5階建て)のモダンな建物で、広島の名所になっていました。原爆はその南東約150メートルの上空で炸裂し、建物は大破し全焼し、館内にいた人は全員死亡したと伝えられています。
写真は元安川の対岸にある平和公園から撮影した原爆ドームの西側、西側から見ると当時の姿が比較的よくわかるようです。 |
原爆ドーム(東側)
写真は原爆ドームの東側から見たの姿、銅板で葺かれていたドームの屋根の部分だけが原爆の熱で一瞬にして溶け落ち、鉄骨むきだしの無残な姿になっています。ドームの屋根が一瞬に溶け落ちたため、爆風が吹きぬけ建物自体の倒壊が免れたといわれています。 ドームは、横からみると半円形ですが上からみると楕円形をしているそうです。
|
|
|
原爆ドーム(南側)
写真は原爆ドームの南側、南側はほとんどが吹き飛ばされています。このドームの左側に元安川が流れていますが、原爆の熱線で全身やけどを負った人々は水を求めて元安川に殺到し、亡くなりました。
|
吹き飛んだ南側
南側から見た原爆ドームの拡大写真、原爆が写真の右斜め奥の方角で炸裂したためでしょうか、南側にあった建物が吹き飛ばされ、その跡がくっきりと残っています。広島県産業奨励館は、横からの力には弱いレンガ造りでしたが、原爆はほぼ真上で爆発したため、爆風を垂直に受けることになり、ドームの部分と建物の壁の一部は倒壊を免れたといわれています。 |
|
|
夜の原爆ドーム
原爆ドームは、夜になるとほのかにライトアップされ写真のようになります。原爆ドームは、核廃絶の方向ではなく核拡散という危険な方向へ向かっている世界に、その悲惨な姿をもって平和へのメッセージを発信し続けています。
|
平和の門
被爆60年にあたり制作された「平和の門」、門一基の高さは9メートル(幅2.64メートル、奥行き1.6メートル)。鉄骨の枠組みを強化ガラスで覆ったもので、表面には49ヶ国語で「平和」という文字が刻まれています。平和記念公園の南側・平和大通り公園緑地帯にあります。
門を10基としたのは、イタリアの詩人ダンテの「神曲」に出てくる9つの地獄に「被爆の地獄」を加えて10の地獄を表しているそうです。「平和へと向う門」であってほしいとの願いをこめて青空に突き進む門を撮影してみました。 |