葛飾北斎
葛飾北斎翁之肖像
(葛飾北斎伝より)
辞世の句 「ひと魂て ゆく気散しや 夏の原」

 葛飾北斎(1760〜1849 宝暦10年〜嘉永2年)は江戸絵画の面白さと豊かさを現代に伝える巨匠の一人。数え出90歳という当時は稀な長寿で、
作画活動は70年間に及ぶ。作品数は膨大で主題も多様である。90回余りに及ぶ転居(一説に93回)、30回以上に及ぶ改名、120種に及ぶ画
名(画家としての名前)など、一見奇妙とも思われる行動をとった。「不染居」(居に染まらず)と号した北斎の真意は、常に前進しようとする画家とし
ての積極的なしせいであったのだろう。
 宝暦10(1760)年、江戸本所割下水(現墨田区亀沢)に誕生、幼名は時太郎、のち鉄蔵。わかくして彫師の技術を学び、安永(1778)年頃、勝川
派の祖で役者絵や美人画を得意とした春章(1726〜1792)に入門。翌年より春朗と号し細判役者絵を中心に作画活動に入る。春章没後勝川を離
れ、寛政7(1795)年頃、江戸琳派の俵屋宗理に私淑し二代目宗理を襲名。以後、私的な刊行物の摺物や狂歌絵本の挿絵、肉筆画などを手がけ
る。後に宗理の号を門人に譲り、北斎と号してからも、音羽の護国寺にて120畳敷の巨大な達磨図を制作する(1804)など、華々しいパフォーマン
スも行っている。文化7(1810)年頃にはこの北斎の号も門人に譲り戴斗と名乗る。文化11(1814)年、50歳代半ばで『北斎漫画』初編を刊行、記
念的な連作『冨嶽三十六景』の刊行は実に70歳をこえての出来事であった。嘉永2(1849)年4月18日、浅草聖天遍照院境内の仮宅で没する。
 米国の『ライフ』誌が、先のミレニアム記念に選出した「この1000年の間に文化に貢献した人物」100名に、日本から唯一選ばれたのも北斎で
ある。現代においても各方面で極めて高い認知度を誇っている。

冨嶽三十六景
 葛飾北斎の代表作となる作品で、70歳を迎える北斎の意欲作。霊峰富士山を様々な地域からバリエーション豊に描いた名所絵(風景画)の傑作で、
当初36枚揃いでの刊行が予定されたが(俗に「表富士」と称される)、大きな反響を得て、さらに10図を加え(俗に「裏富士」)計46図で完成する長大な
シリーズとなった。
 広く親しまれ、また神格化もされた富士山の絵画化にいどんだ北斎は、この連作で富士を様々な姿に描き分けることにちからを注いだ。太古より
人々を見守る富士を生活風景の点景として描いたり、また時に「凱風快晴」のようにクローズアップして描いて人々を驚かせた。一つのテーマを
様々に描き分ける力量に、絵師北斎の底力をみることができる。
 江戸からの情景13図、江戸郊外からの景が4図、江戸の東方(上総・千葉県中央部、常陸・茨城県北東部)からの眺めが3図、東海道の各所
から見た景色が18図。皿に富士山のある甲斐の国(山梨県)の景が7図、最後に富士山頂からの景で締めくくる。

江戸から
 冨嶽三十六景 江戸日本橋
 冨嶽三十六景 江都駿河町三井見世略図
 冨嶽三十六景 東都駿台
 冨嶽三十六景 東都浅草本願寺
 冨嶽三十六景 本所立川
 冨嶽三十六景 深川万年橋下
 1999.10.6発行 国際文通週間
 冨嶽三十六景 五百らかん寺さゞゐどう
 冨嶽三十六景 青山円座松
 冨嶽三十六景 隠田の水車
 1996.10.7発行 国際文通週間
 冨嶽三十六景 下目黒
 冨嶽三十六景 礫川の雪ノ旦
 冨嶽三十六景 御厩川岸より両国橋夕陽見
 冨嶽三十六景 隅田川関屋の里
 1966.10.6発行 国際文通週間


発行 株式会社サンオフィス
「北斎と広重展 目録」より抜粋し掲載する



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