歌川広重
肖像画:歌川広重の死絵
(三代 歌川豊国画)
辞世の歌 「東路へ筆をのこして旅の空
         西のみ国の名ところを見む」

 歌川広重は寛政9(1797)年に江戸城の防火にあたる定火消同心安藤源右衛門の子として八代洲河岸に生まれる。幼名は徳太郎、のち重右
衛門、徳兵衛と改める。数え年13歳で家督を継ぎ、同年相次いで両親を亡くす。定火消同心の業務の傍ら15歳で浮世絵師歌川豊広の弟子とな
り、翌年「広重」の画名を許される。「安藤広重」の呼び方でも親しまれるが、これは武家の姓と浮世絵師の名をあわせた言い方である。27歳で職
を譲り、製作に専念する。
 享和2(1802)年〜文化6(1809)年刊の十辺舎一九作『東海道膝栗毛』などによる名所ものの出版の流行にも乗って、徐々に名所絵の分野に頭
角をあらわし、川口正蔵版のいわゆる「一幽斎がき東都名所」の連作発表を皮切りに、保永堂・仙鶴堂版の「東海道五拾三次之内」で大ヒットをと
ばす。 以後各種の作品を精力的に生産し、安政5(1858)年9月6日に没す。コロリ(コレラ)による病死と伝わる。
 安政2(1855)年10月2日の大地震で大打撃を受ける以前の活気溢れる江戸の町並みや営みを再現し、描き残そうとする絵師の情熱が感じら
れる。また、その新鮮な構図には、まさに「江戸のカメラマン」とも言うべき広重の鋭い感覚が生かされている。

東海道五拾三次之内
 「保永堂版 東海道」の名で親しまれる広重の風景画の代表作で、出世作ともなったシリーズである。東海道の街道沿いの宿場の景53図に、起点と
終点となる日本橋と京都の三條大橋の2図を加えた55図からなる大作である。
 明治中期に編まれた飯島虚心の「浮世絵師歌川列伝」所載の三代広重の聞き書きにより、本シリーズは広重36歳の折、幕府の八朔の御馬献
上の一行に従い東海道を旅した折のスケッチを基に、実景に忠実に描かれたものというイメージが強い。
 しかし四季折々の景を描く完成作品と広重の旅程の時期は一部しか重ならず、またこれをあくまでも聞き書きとし、広重の東海道中自体がが疑
問視されることなども考えあわせると、各所に広重の創意が生かされている事が実感される。このシリーズは爆発的な人気を得て、膨大な量の版
画が刊行されている。
 「東海道五拾三次之内」の刊行に若干先行して発表されたのが、北斎の名所絵の代表作「冨嶽三十六景」であった。富士山をテーマに、特に構
図の面白さに配慮してシリーズを描いた北斎に対し、広重は臨場感をテーマに、人物を比較的大きく配しながら鑑賞者に旅の擬似体験をさせる趣
向をとった。「雨と月と雪の画家」と称される広重の詩情豊な感性が盛り込まれた、浮世絵風景画の名作である。

東海道五拾三次之内 日本橋 朝之景
江戸期の日本橋は全国各地へ通じる街道の起点。現在の橋は明治44年に架設。橋の欄干の装飾は
明治期を代表する芸術品。今も国道1号はここから始まる。橋の中央には「日本国道路元標」が埋め
込まれている。
 1962.107発行 国際文通週間
東海道五拾三次之内 品川日之出
東海道の江戸の玄関口。宿内には七千人もの人々が暮らし、吉原と並ぶ遊興の場所としても有名だ
った。品川には現在も旧跡や名所が至る所に残っており、歴史を活かしたまちづくりが地元の人たち
の手で行われている。
 2005.10.7発行 国際文通週間
東海道五拾三次之内 川崎 六郷渡船
品川宿と神奈川宿の距離が長すぎ、両宿の経済的な負担が大きかったため、その後幕府に申請、新
たに川崎宿が設置された。かつて「六郷の渡し」があった六郷川(多摩川)は、江戸を出て初めて行き
当たる大きな川。
 2003.10.6発行 国際文通週間
東海道五拾三次之内 神奈川 台之景
広重の浮世絵では、海に面した街道沿いに茶屋がならんでいる様子が描かれているが、当時の海岸
線は明治以降に埋め立てられた。横浜開港のおり、宿場内の成仏寺や慶安寺などの寺院が、各国の
領事館として利用された。
東海道五拾三次之内 保土ヶ谷 新町橋
江戸を出立した旅人や大名行列が隣の戸塚までたどりつくのが困難な場合、ここを最初の宿泊地とし
ていた。街道には70軒もの旅籠が並び、なかでも大名や公家が泊まる本陣はひときわ大きく豪華だっ
た。
2007.9.28発行 国際文通週間
東海道五拾三次之内 戸塚 本町別道
武蔵国・保土ヶ谷宿の先には国境があり、次の戸塚宿は相模国。江戸時代後期の人口2900人、家数
600軒以上という記録があり、周辺の経済、文化の中心だった。早朝、江戸を出立した旅人が最初に
宿泊する宿場。
 2002.10.7発行 国際文通週間
 東海道五拾三次之内 藤沢 遊行寺
遊行寺を中心に発展した門前町。遊行寺は、踊り念仏で有名な一遍を開祖とする時宗の総本山。時
宗4代目の呑海によって鎌倉時代末期に創建された。境内の大銀杏は樹齢700年以上ともいわれて
いる。
  2009.10.9発行 国際文通週間
 東海道五拾三次之内 平塚 縄手道
平塚宿から隣接する大磯宿までは約3キロ。「平塚」の地名は、平安時代、桓武天皇の三代孫・高見
王の娘である平政子が東国へ赴く途中にこの地で亡くなり、その棺を埋葬した塚にちなむと言い伝えら
れている。
 2004.10.8発行 国際文通週間
 東海道五拾三次之内 大磯 虎ヶ雨
大磯は、南に相模湾、北に大磯丘陵と湘南平に囲まれた風光明媚な地。広重の五拾三次で描かれた
街道沿いの松並木はいまも健在。明治以降は別荘地として知られ、伊藤博文や吉田茂など著名人の
邸宅が多く建てられた。
 2001.10.5発行 国際文通週間
 東海道五拾三次之内 小田原 酒匂川
戦国時代、後北条氏の拠点だった小田原は、江戸時代になってからも重要視され、宿場町としての機
能を備えた城下町として栄えた。毎年5月の「北条五代祭り」では市民が甲冑を身につけ、北条の武者
行列が再現される。
 東海道五拾三次之内 箱根 湖水図
箱根宿は東海道の他の宿場よりも17年程遅れて設けられたが、本陣の数は6軒と、東海道の中では浜
松宿と並んで多かった。関所は宿場の江戸側に設けられていた。現在、関所の完全復元が完成。
 1961.10.8発行 国際文通週間
 東海道五拾三次之内 三島 朝霧
広重の東海道五拾三次にも描かれている三嶋大社を軸として東西に東海道、南北に甲州と下田をつな
ぐ街道が交差し、そこを中心に宿場は発展した。また富士の湧水が豊かな地域としも知られ、ウナギが
名物になっている。
 東海道五拾三次之内 沼津 黄昏図
狩野川沿いに設けられていた宿で、伊豆地方の物産を江戸へ輸送する港としても重要な役割を果たし
た。今は宿場の面影を見ることは出来ないが、江戸時代から昭和にかけて続いていた渡し舟が、現在
観光用に再現されている。
 東海道五拾三次之内 原 朝之富士
本陣1軒の小さな宿だが、東海道で最も美しい富士山が見える場所として知られ、多くの浮世絵に富士
山が登場する。宿場内にはシーボルトが「日本で見た中で最も美しい庭園」と記した帯笑園や白陰禅師
の松蔭寺がある。
 2001.10.5発行 国際文通週間
 東海道五拾三次之内 吉原左 富士
宿場は元々は海沿いにあったが、大津波などの災害の結果、2度の大移転を行って現在の地となった
。今は商店街になっており、往時の面影を見ることはできないが、当時の旅籠が旅館として残っている。
 東海道五拾三次之内 蒲原 夜之雪
蒲原宿は本陣跡や旅籠の建物や大正時代の洋館が残るなど、情緒ある町並みを現在も見ることがで
きる。広重は雪の蒲原を描いたが、蒲原は気候が温暖で滅多に雪は降らない。なぜ、雪景色にしたの
か諸説が存在している。
 1960.109発行 国際文通週間
 東海道五拾三次之内 由井 薩 嶺
海と山に挟まれた小さな宿だが、昔の面影が残る雰囲気ある町並みになってる。本陣跡は公園になっ
ており、敷地内に「東海道広重美術館」が設けられている。宿場の西側の由比港は、桜えびの水揚げ
地として知られている。
 2002.10.7発行 国際文通週間
 東海道五拾三次之内 奥津 興津川
興津宿は東海道だけでなく身延山道の起点でもあり、多くの宿泊者でにぎわった。また興津川流域で
産する和紙の集散地にもなっていた。宿の西側には徳川家康が幼少期に教育を受けたという清見寺が
ある。
    2009.10.9発行 国際文通週間


発行 株式会社サンオフィス
「北斎と広重展 目録」より抜粋し掲載する

  


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